俺にとって愛すべき新宿という場所について

俺にとって気兼ねなくいける場所――新宿。誰かに気を遣ったり、服装にこだわったり、やたらと構えたりせず、ありのままの姿でぶらりと立ち寄ることが出来る新宿が、俺は好きだ。このサイトではそんな俺の好きな新宿と、その歴史や成り立ち、そしてその新宿が舞台になった愛すべき物語や映画などについて語ることにしよう。

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新宿の歴史


 そもそも新宿がどういう場所なのかを知らない人より上に、新宿という場所に関しての歴史を知らないという人は沢山いる。そこで、このページではそんな新宿は、どんな歴史を経てどんな文化が生まれてきたのかについても紹介していきたい。ビジネス街として、または歓楽街として栄えているこの場所が、果たしてどのような要因によってそうなっていったのでしょうか? 一つずつ見ていきましょう。

新宿の待ち合わせはめぐりあえるのか?!

新宿の場所と起源

 新宿の元々の場所は、武蔵野台地の東方に位置しており、甲州道中の宿駅である内藤新宿として栄えていました。

 その後明治維新後になって鉄道駅が敷かれましたが、繁華街として発展し始めたのは、関東大震災がおこったあとになってのことです。つまり、銀座や浅草などの下町などと比べてみると新宿は表層地盤が非常に強く、災害に強い特徴がありますので、震災後になって人口が激化した場所であり、また西部郊外の中でも乗り換え無しにいける鉄道が中央線だけだったという時代背景もあり、私鉄からの乗り換え需要で新宿に多くの交通網が集中するようになり、結果として、都内有数の一大歓楽街となったのです。(その結果として新宿駅は非常にダンジョン化していくこととなる)

 その後新宿副都心の開発が始まると、西新宿などには超高層ビルなどが多数林立していき、東京都庁移転に伴い、現在に見られるオフィス街が形成されていくことにもつながりました。

雨の日にありがたかった「サブナード」・・。

江戸時代

宿場が開設されるまで

 そんな高層ビルが建ち並ぶオフィス街、歓楽街となっている新宿ですが、江戸時代の宿場が解説されるまでは、そうではありませんでした。1698年に、信州高遠藩主内藤氏の下屋敷に甲州道中の宿駅として内藤新宿が設けられたのが「新宿」の始まりですが、新宿と内藤氏とのつながりは、豊臣秀吉により後北条氏が滅ぼされ、徳川家康が江戸に入府する直前の1590年(天正18年)7月にさかのぼります。三河時代より徳川家康の小姓として仕えていた内藤清成は、家康の入府に先立ち後北条氏残党に対する警備のため、鉄砲隊を率いて甲州街道(国府道)と鎌倉街道が交差していた今の新宿二丁目付近に陣を敷くこととなります。

 この功績によって、清成は付近一帯を拝領することになり中屋敷を構えることになりました。なお、清成が率いていた鉄砲隊は、1602年に伊賀組鉄砲百人組として大久保に配置され、百人町の名のもととなっています。

 この拝領に関しては、家康が「馬一息で駆け巡るのみの範囲を与える」と伝えたため、清成は馬に乗り榎の大木を中心に東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保におよぶ範囲を駆け、その馬はついに倒れて、まもなく死んでしまったというお話があります。ちょっと馬が可愛そうですね。

「新宿」が生まれた日

 甲州街道は江戸から甲府までの主要街道として江戸時代に整備が行われ、第一の宿場の高井戸までは距離があったものの、難儀に思いながら旅人はこれを利用してきました。しばらくすると、今の新宿二丁目近辺に人家ができはじめて、1625年になると住民の誓願によって町屋が太宗寺門前に作られはじめ、これを内藤宿と呼ぶようになりました。

 実際には「宿」と称されている物の正規の宿場ではなく、甲州街道や成木街道を利用する人馬が休憩所として利用していたので、そのように呼び習わすこととなったといいます。

 1697年、甲州街道における新たな宿場の必要性や行楽地づくりを念頭に、当時の浅草安倍川町の名主であった喜兵衛ほか同志4人が5,600両の上納と同じく宿場開設を願い出て、翌年、内藤家の中屋敷の一部を利用して宿場が開設され、内藤新宿と称されます。ここから新宿の名が誕生しました。なお、宿場開設を申し出た喜兵衛は高松喜六と名乗り、高松家は代々新宿の名主を務めました。

新しい宿としての発展

 この新宿は、玉川上水の水番所が置かれていた四谷大木戸から西、今の新宿駅付近までの街道沿いに広がっていた。新宿追分(新宿追分・今の新宿三丁目交差点付近)からは青梅街道も分岐していて、やがて、品川(東海道)、板橋(中山道)、千住(日光街道、奥州街道)と併せて四宿と呼ばれていて、江戸の新たな行楽地としても発展しました。

 その結果、非公認の売春宿等も繁盛してしまいます。これが災いし、享保3年に風紀上の理由によって一時廃駅の憂い目にあうも、明和9年には復帰しています。歓楽街としての新宿の原型は、この時代に既にあったといえるでしょう。このころ太宗寺は、江戸六地蔵のひとつに数えられ、庶民の信仰を集めていました。また、成覚寺は遊女等の投げ込み寺でした。

明治期による躍進

 明治維新後、新宿の武家地は住むものがなくなり荒廃し始めた。そこで、とくに広大な敷地を誇った内藤新宿は大蔵省によって買い上げられ、海外から持ち込まれた動植物の適否を試験する「内藤新宿試験場」となって、1879年には宮内省の所轄となって「新宿植物御苑」と改称されました。これが新宿御苑のおこりです。他方で、江戸時代の岡場所は、明治より後は遊郭となって、戦後の公娼廃止後もいわゆる赤線地帯として1958年(昭和33年)の売春防止法施行まで続いた。

 また、1885年(明治18年)に日本鉄道品川線(後の山手線)が開通し、新宿駅が宿場の西はずれ角筈(つのはず)に作られます。続いて、甲武鉄道(現JR中央線)、東京市街鉄道が新宿駅に乗り入れ、1915年(大正4年)には京王電気軌道(現、京王線)が乗り入れ、ターミナル駅としての姿を見せ始める。

関東大震災後にさらにその流れは

 そして、その流れを決定的にしたのが、1923年に起きた関東大震災です。表層地盤の弱い都心部の銀座や浅草等の下町エリアは繁華街が全滅し人口が激減したのに対して、武蔵野台地の東端に位置している新宿は地盤が強くほとんど被害を受けなかったために、渋谷、池袋といったような他のターミナル駅と同じく、郊外の人口の急増にともない駅周辺が新たな繁華街として発展することになったのです。

夜の新宿

 なかでも、当時の中央線は西郊から都心に乗換えなしに行ける唯一の鉄道であったことから、新宿に交通が集中するようになり、昭和の初めには小田急線、西武鉄道も乗り入れ、新宿は都内有数の繁華街となってました。伊勢丹デパートや中村屋のカリー、高野商店の果物(フルーツパーラー)といったような名物をはじめ、武蔵野館、新歌舞伎座、帝都座、ムーランルージュ新宿座等の映画館、劇場、カフェー等が集中し人々で賑わうようになります。

現在にいたる新宿

 こうして、今の新宿は、多種多様な人と文化が集まり、新たな経済と文化を創り出す日本有数の巨大繁華街として全国的、世界的にも認知され、日本政府観光局の訪日外客実態調査では、2004年度調査以降、都市・観光地別訪問率のトップを占め、2009年に東京都が実施した観光客数等実態調査では、最も満足したまちの第1位となる等、東京における観光スポットの顔となっています。